空気を読まなければ。人に合わせなければ。十代の頃はそんなふうに「普通」という概念にとらわれていた時期があったという井手上さん。
「学生の頃は生きている社会が狭すぎて、マジョリティが正解であると、無意識に勘違いしてしまっていました。だから、人に合わせたり、空気を読めることが正解だと思っていたんです。そうやって場の状況を客観的に読み取る力は、生きる術の一つとしては、必要な武器なのかもしれません。だけど、どこかで心が満たされなかったんです」
そんな井手上さんを解き放ってくれたのが、幼い頃から興味を持っていた美容の存在でした。美容といえば女性のもの、という価値観がいまよりも一層根強かった時期。自身のジェンダーについて悩んだ時期もあったなかで、美容が好きなことは人にあまり言えないまま、隠れてこそこそ取り組む日々が続いていたのだそう。
「美容という好きになれるものがなかったら、生きていけなかったと思います。美容を突き詰め始めてから、自分のことをより好きになれました。コミュニケーションにも苦手意識があったけれど、コミュニケーションって、言葉を交わすことだけではなく、ファッションや美容、表情や仕草も含まれると気づいたんです。それからは、シチュエーションに合わせてメイクやファッションを変えることで、気持ちを奮い立たせたりして、そうやって美容に助けられてきました」
いまは「自分が好きです」とはっきり言葉にする井手上さん。夢中になれるものとの出会いが、自身を救ってくれた経験があるからこそ、好きなことを見つける大切さを強く実感しているのだそう。
「好きなことって、それが職業に繋がるような特別なことじゃなくても、なんでもいいと思うんです。お風呂に浸かる時間や、おいしいものを食べる時間、そういう1日の一瞬を切り取った時間であっても、心がリラックスする瞬間を大切にできるといいのかなと思います。好きなことをしている時間って、目には見えないキラキラしたものが心から溢れ出ていて、誰しももっとも自分らしくいられると思うんです」
SNSを見渡すと、すぐに人と見比べることができてしまう現代。自分の「好き」と徹底的に向き合うことは、他者と自分を比べなくなる術でもあると、井手上さんはいいます。
「現代の若者は、他人を介在させて幸せを得るようになったという話を、以前に聞いたことがあって。他人から承認してもらうことで、幸せを得るのではなく、自分が心の中で幸せだと思えることが大事だと気付かされました。好きなことを突き詰めたいまの自分は、人と比べる必要がないと感じます。だからこそ、劣等感を強く抱かなくなりました」
自身を救ってくれた美容について「表現者として説得力をつけたい」という思いから、仕事と両立しつつ美容専門学校に通い、2023年に、ハリウッド国際メイクアップアーティスト検定1級を取得した井手上さん。それまでは独学で美容を追求していたものの、専門学校で、初歩的な基礎から美容を学んだことから得た気づきも多かったのだそう。
「美容の基礎を学んでいるうちに、『これがこうなるんだ!』って紐づく瞬間がたくさんありました。基礎を知らないと、個性的なメイクもできないんです。でもそれって人生もそうだなと思います。狭い環境にいた時期や、自分を否定してくるような人と出会ったこともあるけど、これまで出会った人がいまの私をつくっていると思うんです。だから肯定も否定も含めて、さまざまな価値観に触れることができた、これまでのすべての出会いに感謝しています」
2025年2月には、美容本『自信がつく美容、美容でつく自信』を発売。美容によって外側を磨くことで、内面までもが磨かれていくような感覚があったという井手上さんが、自身の持つ美容への思いや知識を1冊に閉じ込めました。
「今回の本の中では、かっこいいメンズの私、キュートな私、カジュアルな私……さまざまな変化を見せています。1人の人間でありながら、いろんな自分を持っているというのは、まさに私がなりたかった姿なんです。それはビューティーの力を借りないとできないことなので、資格を取ってようやく説得力のある形で作品ができました」
3歳の頃ウエディングドレスを見て、その美しさに惹きつけられたという井手上さんは、「綺麗なものが大好きなんです」といいます。さまざまな美しさが存在するなかで、いまの井手上さんが思う美しさとは「完璧ではない人間らしさ」とのこと。
「その人にとって、コンプレックスかもしれない部分が垣間見えている方が、私は好きなんです。だから私もメイクの中で、一つ癖が強いところをつくると決めていて、定番すぎるメイクになってしまったときは、あえてほくろを描いたり、眉毛を太くしたりします。マネキンみたいな完璧さではなく、人間らしいことに美しさを感じます」
自分にとってのコンプレックスが、かえってチャームポイントになり得る。井手上さんは、十代の頃から「コンプレックスの裏側に才能がある」という言葉を大切にしているといいます。
「学生時代はみんなと同じであることを評価されるから、人と違う部分がコンプレックスだったとしても、社会に出れば、人と違うなにかを持っていることが強みになるんです。私はずっと自分の性別がコンプレックスだったけど、こうやって本を出したり、いろんなジャンルのメイクができるのは、性別がない私だからできることだと思うと、いまはコンプレックスではありません。なんなら武器にしていると感じられています」
考えること、自分と向き合うこと。自分がどんな人間であるかを徹底的に追求してきた井手上さんは、思い悩む時間も大事にしているのだそう。
「考えることが好きだし、心の中のもやもやの正解を出したいときや、美しいものを見て、言葉に変えて残しておきたいときに、日記をつけたり、歌をつくったりします。絵を描くことも好きで、絵を描いているとあっという間に何時間も経っちゃうんですよ。周りから、すごく楽しそうだから話しかけることもできないと言われるくらい。そうやって自分と向き合っている時間が大好きなんです」
「だから、別に自分のことを人にわかってもらわなくてもいいんです」と、井手上さんは続けます。その心は? と問うと、「自分が好きだからこそ、ありのままの部分は見せすぎたくない」と断言します。
「性別適合手術をしてるのかしてないのか、好きな性別はなんなのか、学生のときは男友達と女友達どちらが多かったのか、男女どちらの性の制服を着てたのか、髭は生えないのか。そんな疑問をぶつけられることもあります。ただ、私がそういうことをすべて赤裸々にしないのは、『そんなことを聞くような人の前で、裸になる必要ある?』と思うからです。表現者やインフルエンサーは、全部を明らかにしていくことが数字を集めたり、注目される秘訣だったりもするけれど、私はあえてそうしたくないんです」
自身について「奇妙な人」として扱われたこともあったという井手上さん。いまはその「奇妙」を「希少」に変えていきたいのだといいます。
「私は芸能界の中でも珍しいキャラクターだと思うんです。だからロールモデルのような存在もなかなかいないし、私がやっていくことって、初めてのことだらけで、失敗はつきものだと思います。私のような存在がほかにいないからこそ、発する言葉にはできるかぎりこだわりたいです」
自分の言葉が与える責任の大きさと向き合いつつも、なぜ人前に立ち、表現することを続けていくのか。井手上さんはこう答えます。
「人生には終わりがあるけれど、世の中に自分が生きた証を残したいんです。それは人によって、子孫だったり、言葉だったり、本や作品だったり、いろいろな方法があると思います。きっと、私みたいにマイノリティと呼ばれる人たちも、いまみんながガラケーではなくスマホを使っているような感じで、近い未来にはきっと当たり前になっていると思うんです。だから自分は、いまこの時代に希少なやつとして生きていたという証を残しておきたいと思いながら表現者をしています」
『自信がつく美容、美容でつく自信』
著者:井手上漠
出版社:扶桑社
発売日:2025/2/26
https://www.fusosha.co.jp/books/detail/9784594099770
『自信がつく美容、美容でつく自信』
著者:井手上漠
出版社:扶桑社
発売日:2025/2/26
https://www.fusosha.co.jp/books/detail/9784594099770
2003年生まれ。第31 回ジュノン・スーパーボーイ・コンテストにて「DDセルフプロデュース賞」を受賞。2019年「第36回ベストジーニスト2019」次世代部門賞を受賞し、2020・2021年と「マイナビ東京ガールズコレクション」に立て続けに出場。2021年4月に初のフォトエッセイ「normal?」を発売。2022年には自身がプロデュースするジェンダーレスファッションブランド「BAAKU」を発表するなど、多岐に渡って活動中。
1988年 韓国 ソウル生まれ。2014年東京工芸大学卒業後、SASU TEI氏に師事。2019年に独立。現在はTRONに所属。
JOSE MOON ( @_josemoon_ )
neith. ( @neith.tokyo )